『新建設業を考える』をテーマとして考え続けます。
2009年

 平成17年4月23日

現在の建設業界は社会においての風評は、ただ単に景気を左右させるために公共事業の一貫として建設工事が発注されていると思われています。政治家と建設業者の癒着や建設会社が官僚の天下り先であるとか一般的には悪評しかきかれないようです。
 建設の再生を考えるにおいて本来の建設とは何であったかを確認しないといけないと思います。
特に土木の始まりがどのような目的であったのか。思想であったのか。原点に戻って考えてみる必要があります。
最近、明治維新時代の日本国の人材登用をテーマにしたテレビ番組が放送されていました。やはり土木建設を考えるにはこの時代を参考にしたいと考えます。
この時代は、鎖国から開国の時代であり技術輸入する時代でした。他の近隣諸国では蒸気機関車や蒸気船(黒船)などもの自身を購入した。そのとき日本は海外から技術を導入しています。技術の専門用語では全て日本語に訳しその意味や内容を理解することから理解し新しい技術を導入しています。この時代から日本流の独特な考えから技術体系を築いています。
ドイツや英国の技師を日本に招いて技術の指導を受けています。国内経済の発展のために道路整備やダム、かんがいなどを担っていたのが土木建築技術者であり、また災害発生後には、災害復旧に重要な役割をはたしています。地震災害、台風災害の復旧においては、公共機関→道路→給水設備→電気設備と国土の復旧に重要な役割を果たしています。
実は被災者には申し訳なくおもいますがこの災害復旧するという行為は土木建設技術者の原点でないかとおもいます。
過去の明治時代の土木建築に携わっていた技術者はどんな理念を持っていたのであろうか考えてみます。
構造物を作ることのみでなかったとおもいます。
日本国のこと、経済全体のこと、人の移動、物資の輸送、また、資金の調達、また海外からの技術導入、あらゆることを意識して建設していたと思います。
現在先人たちの造った建設構造物には、今にない風格が感じられるのは現代人にないおもいいれのパワーを感じます。
 発展途上国型の建設投資時代の建設構造物は、人口の増加にともない経済の発展のため規格の均一化が進められました。
それにともないどんどん経済断面と称して安心感のない、じつに安普請の構造体もお目見えしています。
建設構造物は、工場生産のオートメーションのようには、建設物を大量生産できません。過剰な公共投資(バブル期のような時期)には、それにともなって技術者と専門業者が必要になり、施工や管理者が不足した場合には、構造物の施工不良にもつながります。施工に従事する作業員の質や管理する能力でさえも過剰な建設投資には追随できませんでした。
前述した明治時代と現在との違いは何であったのだろうか。構造物の労働力、技術力、資材調達、住民調整などあらゆるものをマネジメントしていた技術者が存在したのであろうと考えます。現在においては、分業化したために弊害が出てきているのでないかとおもいます。産も官も学と民においても一体となった建設の再生を考えるべきであります。
コンクリート構造物が半永久的な耐久性があるという時代から補修するという時代に変化しており、今までに造ってきた建設構造物が負の遺産とならない様に維持する時代です。構造物をアセットマネジメントとしてとらえ維持管理する考えがありますが、その前に本来の建設技術者が何をするかもう一度考えなおす必要があります。
建設投資をいかにマネジメントするというのみでなく、建設本来の目的を再度はっきりさせるべきです。公共投資建設工事や失業者対策のみの目的となるのではなく建設本来の目的とした中で建設技術者が各方面で向上するものでないといけないと思います。
また建設術者の技術は、各産業界に向けて発展的に拡散しないといけないと思います。建設技術者が何をするか維持補修することを踏まえた土木工学を体系付けることから始める必要があるとおもいます。土木工学以外の電気工学、機械工学、化学工学、生物学などを融合するなどの考え方を技術の融合が必要になります。ロボット工学のある先生の話だがロボットを開発するとさまざまな分野の工学の技術力がアップするそうです。機械工学、電気工学、人間工学などロボット開発に携わる工学がまた違う分野で利用されるということでした。このように、建設の再生を考えるにおいても、本来の建設を大目標にして技術および精神も追随したいものです。
土木技術者も電気工学、電子工学、機械工学、化学工学など他の工学技術を複合的に利用した技術的なマネジメントを目標にした技術力のアップが求められます。また建設業界全体としては学術的な部分のみでなく精神的な(社会的な)部分の向上が建設の再生には必要なことだとおもいます。

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